仲代達矢の生い立ちは極貧だった?父の死と戦争体験から俳優座入所まで!

こんにちはNICKです!

いつも私のブログを読んでいただきありがとうございます。

今回は、2025年11月8日に肺炎のため都内の病院で92歳で亡くなられた日本を代表する名優・仲代達矢さんの生い立ちについて詳しく調べてみました。

「影武者」や「用心棒」など数々の名作に出演し、日本映画界に輝かしい足跡を残した仲代達矢さん。

そんな仲代達矢さんですが、幼少期はどのような環境で育ち、どうやって俳優の道を歩み始めたのでしょうか。

今回は、

・幼少期の極貧生活
・戦争体験と母親の再婚
・俳優座入所への道

を主に、仲代達也さんの生い立ちについて調べました。

仲代達也さんは、想像以上に過酷な生い立ちがあったんですよね。

目次

仲代達矢の誕生と幼少期の極貧生活

日本映画界の巨匠として知られる仲代達矢さん。

そんな仲代達矢さんですが、幼少期は極貧生活を送っていたと言われていますが、本当なのでしょうか。

仲代達矢さんは1932年12月13日、東京府東京市目黒区五本木で誕生し、父親が8歳の時に結核で他界したことで、母親が女手一つで4人のきょうだいを育てる極貧生活を送っていたんです。

仲代達矢さんは、1932年に東京都目黒区で生まれました。

1932年、東京生まれ。

幼い頃から映画に憧れたが、父親が病弱で早逝したため家計は苦しく、第二次大戦下に過酷な幼少期を過ごす。
出典:無名塾

お父さんは京成電鉄のバス運転手をしていたそうです。

1940年、仲代達矢さんが8歳の時に、お父さんが結核で42歳という若さで亡くなってしまったんです。

それ以降、お母さんが女手一つで4人の子どもを育てることになり、生活は一気に苦しくなったんですよね。

運動会にはお弁当が用意できなくて参加できなかったり、遠足も参加料金が払えなくて行けなかったんだとか。

もともと内気で引っ込み思案だった性格に加えて、何度も転校を繰り返したことから、いじめにも遭っていたそうなんです。

富裕層の多い青南小学校に転校した際には、教師から「ここはお前らのような貧乏人が来る学校ではない」と言われたそうなんです。

これは本当にひどい話ですよね。

【執筆者の感想】

8歳で父を失い極貧生活を送るなんて、想像するだけで胸が痛みます。

仲代達矢の戦争体験と母親の再婚

極貧生活を送っていた仲代達矢さん。

そんな仲代達矢さんですが、戦争中はどのような体験をし、家族関係はどう変化していったのでしょうか。

仲代達矢さんは10歳で学童疎開を経験し、12歳の時に山の手空襲で地獄絵図のような光景を目撃、さらに疎開中に母親が弁護士の妾となり弟が生まれるという複雑な家庭環境を経験したんです。

1943年、仲代達矢さんが10歳の時、太平洋戦争中の学童集団疎開で調布市仙川のお寺に疎開したそうです。

お母さんは一度も面会に来なかったんだとか。

慣れない環境と寂しさから、毎晩おねしょをしていたそうなんですよね。

1945年5月25日、仲代達矢さんが12歳の時、小学校を卒業した直後に山の手空襲に遭遇したんです。

渋谷から青山へ向かう途中で突然始まった空襲で、地獄絵図のような悲惨な光景を目の当たりにしたそうなんですよね。

終戦後、疎開先から実家に戻ると、そこには知らない赤ちゃんがいたそうなんです。

実はお母さんは疎開中に住み込み先の弁護士の妾となり、弟を出産していたんだとか。

これは本当に衝撃的な出来事だったと思います。

【執筆者の感想】

空襲体験と母親の再婚、12歳の少年には重すぎる現実ですよね。

仲代達矢の青年期と俳優座入所への道

出典:無名塾

過酷な幼少期と戦争体験を経た仲代達矢さん。

そんな仲代達矢さんですが、どのようにして俳優の道を志し、俳優座に入所することになったのでしょうか。

仲代達矢さんは中学生の頃から様々なアルバイトで家計を支え、定時制高校を卒業後、生活のために俳優を目指すことを決意し、1952年に約20倍の競争率を突破して俳優座付属俳優養成所に入所したんです。

終戦後、仲代達矢さんはまだ中学生でしたが、様々なアルバイトを掛け持ちして家計を支えたそうなんです。

中学卒業後は定時制高校に通い、働きながら学業を続けたんですよね。

高校卒業後、夜間高校の友人から「お前は顔がいいから役者になれよ」と勧められたそうなんです。

最初は聞き流していたみたいですが、生活のため、食べていくために俳優を目指すことを決意したんだとか。

出典:無名塾

ボクサー、歌手…最後の選択肢が「俳優」だった
出典:tubhouse

1952年、19歳の時に約20倍の競争率を突破して、俳優座付属俳優養成所に第4期生として入所したんですよね。

養成所では夜はバーで働きながら、演技の勉強に励む日々を送ったそうなんです。

1954年、21歳の時に黒澤明監督の「七人の侍」のオーディションに初めて合格したんです。

ただし、街中を通り過ぎる浪人役という、わずか数秒間歩くだけの役だったんだとか。

そしてその後、「用心棒」「椿三十郎」「影武者」など数々の名作に出演し、日本を代表する名優へと成長していったんです。

【執筆者の感想】

生活のために選んだ俳優という道で大成するなんて、人生って本当にわからないものですよね。

まとめ

今回は、2025年11月8日に肺炎のため都内の病院で92歳で亡くなられた仲代達矢さんの生い立ちについて詳しく見てきました。

仲代達矢さんの生い立ちは、8歳で父を失い極貧生活を送るという過酷なものでした。

戦争体験では、12歳の時に山の手空襲で地獄絵図を目撃し、母親の再婚という複雑な家庭環境も経験したんです。

青年期には働きながら定時制高校に通い、生活のために俳優を目指すことを決意しました。

そして1952年、19歳の時に約20倍の競争率を突破して俳優座付属俳優養成所に入所し、俳優への道を歩み始めたんですよね。

極貧の中、生活のために選んだ俳優という道で、やがて日本を代表する名優へと成長していったんです。

92年の生涯を通じて、日本映画界に輝かしい足跡を残された仲代達矢さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

それではありがとうございました。

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